陸奥国安積郡「下守屋村」(現、郡山市三穂田町下守屋) 2024.6
戦前、池袋から疎開で母の里下守屋村へ、1943年から1949年12月(小学2年)まで6年間過ごした故郷。
下守屋村は、面積150万坪、郡山盆地(安積原野)の西端、郡山から西13.8kmに妙見山(飯森山)や高旗山などの麓、標高304m。
山からの吹き下ろす風は冷たく降雪量も多く、郡山より半月早く冬が訪れ、太閤検地(文禄3年)の田畑ランク付は下、隣接する富岡村、鍋山村、川田村のランクは中。
長沼街道沿いに位置し、郡山市街(230m)が見下ろせる。妙見山からは笹原川を育み村内を流れ阿武隈川に合流する。
下守屋山の地中には猪苗代湖からの安積疎水トンネルが掘られ、農業用水として利用される。
八雲神社(飯豊和気神社)と「宗福寺」が村人を見守る。
妙見山(飯森山)に鎮座する飯豊和気神社は、五穀養蚕の守護の神であって敬神者が遠くから参拝に登山、戦前は、春祭りには千数百人の参詣人で大賑わいな山祭りがあった。
江戸時代「下守屋名主水山家文書」1637〜1873、236年間の人別帳残され、農民の人口形態や労働分析などの資料として、今でも論文が多く書かれている
平成時代から、河川改修や水田、圃場が整備、バイパス県道などが出来て村の景観が大きく変わる。
笹原川の改修で植えられた「千本桜」が、平成12年頃(2000)から観光名所として脚光を浴びてきた。
下守屋村の変遷 | ||
約2200万〜1500万年前 | 妙見山が噴火した火山(安山岩・玄武岩類) | |
約2万年前 | 弥明遺跡から旧石器が出土(田村町) | 下守屋村から13km |
4世紀後半 | 大安場古墳が造られる(田村町) | |
神亀元年(724) | 下守屋村社 飯豊和気神社 飯森山(妙見山)に勧請 | |
寛9年(897) | 飯豊和気神社 正五位上「日本紀略」 | |
文禄2年(1593) | 飯豊和気神社 正一位 | |
寛永13年(1636) | 飯豊和気神社 火災により社殿、社宝、記録などが焼失。会津城主加藤式部少輔(義明公)が再建、神領二百石寄進 | |
寛永14年(1637) | 陸奥国安積郡下守屋村名主「水山家文書」「1637〜1873の人別改町」136冊(郡山市歴史資料館所蔵) | 山村の農民層分析の資料として現在も利用。 |
寛永20年(1643) | 下守屋村、会津藩領から二本松城主丹羽氏領(1643〜1833)に移る | |
享保元年(1716) | 下守屋村の人口422人 | |
享保20年(1735) | 下守屋村名主の与五右衛門が「穀類草木魚鳥獣其外品々書上帳」を二本松藩に提出。産物帳は、穀・菜・菌・菓・木・草・竹・魚・貝・鳥・獣・虫・蛇など16種に分類され、獣類には「馬・犬・ねこ・ねつみ・猪戸・しか・狼・狐・狸・うさぎ・いたち・河獺」が書き上げられている。 | |
天明3年(1783) | 天明の飢饉 人口353人のうち30名が亡くなる | |
享和3年(1801) | 二本松領下守屋村で疱瘡(ウィルス)が流行(16人病死)、藩は通行を遮断し、村の生活をそのまま続けさせて隔離 | |
文政7年(1824) | 熊田文儀の墓碑文「守屋村疫毒騁□人多斃」 | 山頂飯豊和氣神社石段付近に顕彰碑がある |
文政8年(1825) | 下守屋村で再び疱瘡が流行 | |
天保4年(1833) | 熊田文儀が下守屋村で種痘を実施 | |
天保8年(1837) | 天保の飢饉 280人のうち37名が亡くなる | |
享保20年(1735) | 「穀類草木魚鳥獣其外品々書上帳」二本松藩に提出 下守屋村名主与五右衛門 | オオカミ、カワウソが棲息 |
享保元年〜明治2年(1716〜1869) | 陸奥国安積郡下守屋村(152年間) | 明治2年大政奉還 |
明治2年2月 | 金の官営指定鉱山 10月廃業 | |
明治2年(1869) | 下守屋村の人口332人 | |
明治9年3月(1876) | 下守屋尋常小学校創立(下守屋字館ノ越3番地) | |
明治9年6月(1876) | 下守屋村が二本松領から明治新政府へ | |
明治22年4月(1889) | 富岡村・下守屋村・鍋山村が合併し安積郡三和村が発足。 | |
明治31年6月(1898) | 下守屋尋常小学校を新築 | |
明治35年3月(1902) | 下守屋尋常小学校 1学級、教師男1人、生徒(男46人、女48人) | |
大正14年11月(1925) | 三和尋常小学校下守屋分校に変更 | |
昭和30年3月(1955) | 三和村は穂積村と安積町の一部(川田)と合併し三穂田村が発足 | |
昭和35年頃(1960) | 笹原川の河川改修に伴い地元民が1000本の桜を植樹 | |
昭和40年5月(1965) | 安積郡が郡山市に合併編入 | 安積郡が消滅 |
昭和53年3月(1960) | 三和小学校下守屋分校を閉校して富岡の本校に統合 | |
昭和55年〜平成6(1994) | 水田圃場整備 | 水田形状が大きく変わる |
昭和60年(1985) | 「近世東北農村の人びと―奥州安積郡下守屋村」成松 佐恵子 (著) ミネルヴァ書房 | 江戸中期の生活ぶりを記す |
平成8年(1996) | バイパス県道29号下守屋橋竣工 | |
平成12年頃(2000) | 笹原川の千本桜が観光として脚光される | |
平成30年(2008) | 下守屋の人口408人、115世帯 | |
**** 1838年「天保国絵図 陸奥国」 岩代国安積郡 下守屋村(八百拾九石)、富岡村(千六百壱石)、八幡村、福山村、山口村、駒屋村、川田村、大槻村など |
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昭和23年(1948) 下守屋村 旧住居は、八雲神社の裏で、村から離れ水田が広がり裏手は林 長沼街道を煙り吐き木炭バスが唯一の交通 |
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平成26年(2014)の下守屋 河川改修や水田圃場が区画整備、バイパス県道29号新設 |
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下守屋の文化財 (奈良文化財研究所) 2024.6 |
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村のシンボル妙見山778m(火山 安山岩・玄武岩類))と下守屋村 妙見山と下守屋山の地下トンネルに安積疎水が流れる 2016.8 |
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八雲神社の裏から見える妙見山。 右の旧住居は、電燈も無く、墓地の供物を漁るキツネの目が光り、金網小屋のニワトリが襲われ、家前の小川に蛍が群れ飛ぶ 2006.6 |
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郡山市内が見下ろせ、秋の須賀川花火も見えた 日山1057m 移ヶ岳994m 2008.8 |
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入学から2年間学んだ下守屋分校 学校の記憶が薄く、実った稲穂畑に入りいなご取り、小さなオルガンとちんから峠を歌声 1962.12 |
学校の入口階段に建つ「閉校記念碑」昭和63年本校に統合 2006.6 | 明治9年下守屋分校を置き、昭和40年三和村小学校下守屋分校に改称 2006.6 |
三和小学校下守屋分校 入学式か? 富岡の本校で撮影 1947頃 キョウコ先生、元名主水山家の子孫が一緒、 3人が浅草に移転する |
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村社 夏祭りの夜、夫婦杉からムササビが飛び出る 2018.5 | 八雲神社 (飯豊和氣神社遥拝殿)妙見山が見える 2018.5 | 妙見山山頂に鎮座する飯豊和氣神社724年創建 2008.8 |
村内唯一の寺 宗福寺 | 墓地 2018.5 | 享保20年 「穀類草木魚鳥獣其外品々書上帳」獣類//馬・犬・ねこ・ねつみ・猪戸・しか・狼・狐・狸・うさぎ・いたち・河獺が存在 |
疎開直後、本家の隠居家にカイコ棚と一緒で仮住まい 1962.12 | 旧住居6年間石油ランプで過ごす、ニワトリ小屋、ヤギ小屋、小さな池、裏庭に井戸がある 1962.12 | 下守屋バス停近くの観光案内板 2018.5 |
「近代東北農村の人びと」1985成松佐恵子著 江戸期の下守屋村の暮らしぶりが記されている 水山家文書「人別改町」から江戸時代中期から後期150年間の下守屋村に住んだ人々や家族のたどった過程 、人々の暮らしぶりが仔細に書かれ、天保の飢饉は、道端の雑草を食べ幼児を生かし、老人が次々と亡くなる |
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