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  陸奥国安積郡「下守屋村」(現、郡山市三穂田町下守屋)  2020.5                      



戦前、池袋から疎開で、母の里下守屋村へ、1943年から1949年12月(小学2年)まで6年間過ごした故郷。

下守屋村は、面積150万坪、郡山盆地(安積原野)の西端、郡山から西13.8kmに妙見山(飯森山)や高旗山などの麓、標高304m。

山からの吹き下ろす風は冷たく降雪量も多く、郡山より半月早く冬が訪れ、太閤検地(文禄3年)の田畑ランク付は下、隣接する富岡村、鍋山村、川田村のランクは中。

長沼街道沿いに位置し、郡山市街(230m)が見下ろせる。妙見山からは笹原川を育み村内を流れ阿武隈川に合流する。

下守屋山の地中には猪苗代湖からの安積疎水トンネルが掘られ、農業用水として利用される。

八雲神社(飯豊和気神社)と「宗福寺」が村人を見守る。

妙見山(飯森山)に鎮座する飯豊和気神社は、五穀養蚕の守護の神であって敬神者が遠くから参拝に登山、戦前は、春祭りには千数百人の参詣人で大賑わいな山祭りがあった。

江戸時代「下守屋名主水山家文書」1637〜1873、236年間の人別帳残され、農民の人口形態や労働分析などの資料として、今でも論文が多く書かれている

平成時代から、河川改修や水田、圃場が整備、バイパス県道などが出来て村の景観が大きく変わる。

笹原川の改修で植えられた「千本桜」が、平成12年頃(2000)から観光名所として脚光を浴びてきた。

 下守屋村の変遷
約2200万〜1500万年前 妙見山が噴火した火山(安山岩・玄武岩類)
約2万年前 弥明遺跡から旧石器が出土(田村町) 下守屋村から13km
4世紀後半 大安場古墳が造られる(田村町)
神亀元年(724) 下守屋村社 飯豊和気神社  飯森山(妙見山)に勧請
寛9年(897) 飯豊和気神社 正五位上「日本紀略」
文禄2年(1593) 飯豊和気神社 正一位
寛永13年(1636) 飯豊和気神社 火災により社殿、社宝、記録などが焼失。会津城主加藤式部少輔(義明公)が再建、神領二百石寄進
寛永14年(1637) 陸奥国安積郡下守屋村名主「水山家文書」「1637〜1873の人別改町」136冊(郡山市歴史資料館所蔵) 山村の農民層分析の資料として現在も利用。
寛永20年(1643) 下守屋村、会津藩領から二本松城主丹羽氏領(1643〜1833)に移る
享保元年(1716) 下守屋村の人口422人
享保20年(1735) 下守屋村名主の与五右衛門が「穀類草木魚鳥獣其外品々書上帳」を二本松藩に提出。産物帳は、穀・菜・菌・菓・木・草・竹・魚・貝・鳥・獣・虫・蛇など16種に分類され、獣類には「馬・犬・ねこ・ねつみ・猪戸・しか・・狐・狸・うさぎ・いたち・河獺」が書き上げられている。
天明3年(1783) 天明の飢饉 人口353人のうち30名が亡くなる
享和3年(1801) 二本松領下守屋村で疱瘡(ウィルス)が流行(16人病死)、藩は通行を遮断し、村の生活をそのまま続けさせて隔離
文政7年(1824) 熊田文儀の墓碑文「守屋村疫毒騁□人多斃」 山頂飯豊和氣神社石段付近に顕彰碑がある
文政8年(1825) 下守屋村で再び疱瘡が流行
天保4年(1833) 熊田文儀が下守屋村で種痘を実施
天保8年(1837) 天保の飢饉 280人のうち37名が亡くなる
享保20年(1735) 「穀類草木魚鳥獣其外品々書上帳」二本松藩に提出 下守屋村名主与五右衛門 オオカミ、カワウソが棲息
享保元年〜明治2年(1716〜1869) 陸奥国安積郡下守屋村(152年間) 明治2年大政奉還
明治2年2月 金の官営指定鉱山  10月廃業
明治2年(1869) 下守屋村の人口332人
明治9年3月(1876) 下守屋尋常小学校創立(下守屋字館ノ越3番地) 
明治9年6月(1876) 下守屋村が二本松領から明治新政府へ
明治22年4月(1889) 富岡村・下守屋村・鍋山村が合併し安積郡三和村が発足。
明治31年6月(1898) 下守屋尋常小学校を新築
明治35年3月(1902) 下守屋尋常小学校  1学級、教師男1人、生徒(男46人、女48人)
大正14年11月(1925) 三和尋常小学校下守屋分校に変更
昭和30年3月(1955) 三和村は穂積村と安積町の一部(川田)と合併し三穂田村が発足
昭和35年頃(1960) 笹原川の河川改修に伴い地元民が1000本の桜を植樹
昭和40年5月(1965) 安積郡が郡山市に合併編入 安積郡が消滅
昭和53年3月(1960) 三和小学校下守屋分校を閉校して富岡の本校に統合
昭和55年〜平成6(1994) 水田圃場整備 水田形状が大きく変わる
昭和60年(1985) 「近世東北農村の人びと―奥州安積郡下守屋村」成松 佐恵子 (著) ミネルヴァ書房 江戸中期の生活ぶりを記す
平成8年(1996) バイパス県道29号下守屋橋竣工
平成12年頃(2000) 笹原川の千本桜が観光として脚光される
平成30年(2008) 下守屋の人口408人、115世帯


 


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  1838年「天保国絵図 陸奥国」     岩代国安積郡  下守屋村(八百拾九石)、富岡村(千六百壱石)、八幡村、福山村、山口村、駒屋村、川田村、大槻村など


昭和23年(1948) 下守屋村   旧住居は、八雲神社の裏で、村から離れ水田が広がり裏手は林   長沼街道を煙り吐き木炭バスが唯一の交通

平成26年(2014)の下守屋  河川改修や水田圃場が区画整備、バイパス県道29号新設
 
村のシンボル妙見山778m(火山 安山岩・玄武岩類))と下守屋村  妙見山と下守屋山の地下トンネルに安積疎水が流れる   2016.8

八雲神社の裏から見える妙見山。 右の旧住居は、電燈も無く、墓地の供物を漁るキツネの目が光り、金網小屋のニワトリが襲われ、家前の小川に蛍が群れ飛ぶ 2006.6

郡山市内が見下ろせ、秋の須賀川花火も見えた       日山1057m 移ヶ岳994m        2008.8
2年間学んだ下守屋分校  入学から2年間 学校の記憶が薄く、実った稲穂畑に入りいなご取り、小さなオルガンとちんから峠を歌声                1962.12
学校の入口階段に建つ「閉校記念碑」昭和63年本校に統合                      2006.6 明治9年下守屋分校を置き、昭和40年三和村小学校下守屋分校に改称
                     2006.6
村社 夏祭りの夜、夫婦杉からムササビが飛び出る 2018.5 八雲神社 (飯豊和氣神社遥拝殿)妙見山が見える  2018.5 妙見山山頂に鎮座する飯豊和氣神社724年創建  2008.8
村内唯一の寺 宗福寺 墓地   2018.5 享保20年 「穀類草木魚鳥獣其外品々書上帳」獣類//馬・犬・ねこ・ねつみ・猪戸・しか・・狐・狸・うさぎ・いたち・河獺が存在
疎開直後、本家の隠居家にカイコ棚と一緒で仮住まい 1962.12 旧住居6年間石油ランプで過ごす、ニワトリ小屋、ヤギ小屋、小さな池、裏庭に井戸がある  1962.12 下守屋バス停近くの観光案内板   2018.5

三和小学校下守屋分校 入学式か?   富岡の本校で撮影 1947頃   キョウコ先生、元名主水山家の子孫が一緒、 3人が浅草に移転する
    
「近代東北農村の人びと」1985成松佐恵子著  江戸期の下守屋村の暮らしぶりが記されている
水山家文書「人別改町」から
江戸時代中期から後期150年間の下守屋村に住んだ人々や家族のたどった過程 、人々の暮らしぶりが仔細に書かれ、天保の飢饉は、道端の雑草を食べ幼児を生かし、老人が次々と亡くなる