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  浅草元吉町(現、東浅草と日本堤)  

 浅草元吉町の変遷 -
1594年(文禄3年) 隅田川最初の橋、千住大橋が架かる  -
1603年(慶長8年) 徳川家康が江戸幕府を開く -
1621年(元和6年) 日本堤土手道築造 -
1657年(明暦3年) 明暦の大火(振袖の火事 死者3〜10万人)
1658年(万治元年) 幕府持筒組同心の組屋敷足し地(後に元吉町)となる 日本橋から千束に移転し新吉原が開業
1789年7月(寛政元年) 元吉出世稲荷神社 武蔵国豊島郡浅草元吉町住人18名により鎮座 -
1829年(文政12年) 絵図に元吉町が記載 南北107間2尺(195m)・東西50間3尺(92m)で5611坪(18500m2) -
1843年(天保14年) 上地される -
1844年(弘化元年) 越中島(江東区)小普請組黒鍬組同心の受領地に移る -
1846年8月(弘化3年) 撰要永久録(町触)に元吉町(起立)を示す (日本堤と三谷の間) -
1854年(嘉永6年) 絵図に元吉町が記載 ペリー久里浜に上陸
1891年3月(明治24年) 元地方山谷町田中耕地の一部を追加 -
1911年4月(明治44年) 吉原から出火(浅草大火、吉原全滅)、元吉町、田中町、千束町など約3千戸焼失
1915年(大正4年)  元吉町1〜20番地 5384坪 戸数200戸 男525人女584人合計1140人 -
1934年6月(昭和9年) 浅草元吉町を分断し浅草田中町1丁目と2丁目に変更 (氏神を浅草神社から玉姫に変更か?) -
1966年10月(昭和41年) 浅草田中町が東浅草と日本堤に変更、現在に至る -


 元吉町の名は電信柱の路線名と再建した元吉出世稲荷神社に残され、地名の由来は解らないないが日本橋の元吉原住民が移り住んだので元吉町としたのでないかと思われる。
 子供の頃、2、3回元吉稲荷神社のお祭りがあって太鼓の呼び音と四角い軒先提灯をつるして火を燈したいたが、その後の行事は目立って行っていないと思う
 元吉町は浅草神社の氏子であり地方町、元吉町、山谷町と三社神輿(三宮)が渡御されていたが、昭和9年行政の町名変更の時、当時の町役が奉納金が安い玉姫神社に氏神を変えたと云う、
 三社神輿(三宮)は地方橋と山谷の間(田中町)渡御ができなくなりトラックに乗せて通過している。

寛文10-13年(1670-73) 日本堤土手道(元和6年1621築造)と吉原  寛保享保ノ頃(1716-41) 幕府御持組の受領地(後に元吉町)
文政12年(1829) 吉原遊郭が日本橋から移動後、山谷の宿場から田んぼ道に元吉町ができる 天保13年(1843) 上地され小普請組黒鍬組同心の受領地
嘉永6年(1854) 元吉町の周囲は田畑に囲まれている 明治13年(1880) 江戸のまま区画が整理されず
明治30年(1897) 大正6年(1917) 元吉町5384坪(1〜20番地)戸数200、1140人と人口密度の高い町であった
昭和6年(1931)山谷から橋場まで道路が整備 都電が整備(1904) 山谷掘が取り崩される(昭和2年) 昭和9年 元吉町(赤枠安政3年)は田中町に変更、更に昭和41年(1966)日本堤と東浅草に分かれ現在に至る
元吉出世稲荷神社(寛政元年1789創建)昭和20年3月空襲で焼失 再建碑 昭和30年6月に180余名の有志により再建 東京の電話が普及し始めた明治末頃の地名が残されたのか?
旧元吉町のメインストーリート 日の出会通り 土手(吉原)方面 2004.1  日の出会通り 山谷方面 2004.1 安政3〜5年(1856〜58) 歌川広重の江戸百景 「よし原と日本堤」絵の右手に元吉町がある

池波正太郎「夜狐」
  山谷から道を西へとって行けば山谷掘を越えすぐに新吉原の遊里となる・・・・道を右手へ切れ込むと、両側は元吉町の町家だが、その先は、いちめんの田圃と雑木林がひろがっていた。
☆NHKで放映「吉原裏同心」2014年6月、
  主人公の神谷幹次郎が住む四郎兵衛会所の長屋が浅草元吉町(天明5年頃1785)
☆佐伯泰英作 時代小説「吉原裏同心」
      

元吉町(日本堤)周辺の史跡
東禅寺 寛永3年(1626年)創建、奥州街道口から江戸を守る六地蔵の一つ 2014.1 春慶院 寛永5年建立 高尾太夫の墓 2014.1 駿馬塚(馬頭観音)  源義家が前九年の役に出かけるとき愛馬を失い千住街道(旧日光街道)脇に葬る 2014.1 玉姫稲荷神社 天平宝宇760創建日本堤町の氏神 2014.1
一葉記念碑 明治26年居住 2014.2 平賀源内の墓 1779(安永8年)没 2013.2 広重に描かれた日本堤(吉原大門から) 2014.3 1975年に埋立てられた山谷堀 2014.3
今もなお 柳散るらん山谷掘・・・子規